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過ぎとは?/ マイワン

[ 940] 使えな過ぎて笑う、パワーポイントのクリップアート集:小鳥ピヨピヨ(a cheeping little bird)
[引用サイト]  http://coolsummer.typepad.com/kotori/2003/10/post_33.html

なんでそんな目つきで僕を見るんですか! この人たちと一緒に仕事をする自信が、僕には全然ありません……
僕は仕事柄よく使います。で、見た目を飾るためにクリップアートを使おうといつも思うのですが、何故か僕のパワーポイントに登録されているクリップアートは強力に使えないものばかりで、いつも困っています。
琵琶法師、ベートーベン、アメコミ……三題噺ですか? これらが出てくるプレゼン資料があったら、ぜひ見てみたいものです。
謝ってないじゃん! ちょっと斜めになっちゃってるだけじゃん! プレゼン資料でこんなの使おうものなら、相手の火に油を注ぐことになること請け合いです。
こんな感じで、いつもクリップアートを開くたびに、「いったい何を使ったらいいんだ」と悩み苦しんでいます。
「パワーポイントにデフォルトで入ってるのは、何かの間違いで登録されたものばかりなんだ。オンラインに行けば、もっと実用的で格好いいやつが、たくさんあるに違いない」と思ったからです。
で、クリップオンラインに行って、適当にファイルをダウンロードして、開いてみると、こんなものが出てきました。
でも……資料はあと30分で作らなくちゃいけないし……時間がなかったので、仕方なくこのクリップアートを使って、無理やり資料を作ってみました。
……思いのほか個人的に好きな感じになって、びっくりです。大変気に入ったので、このまま役員会議に提出しました。
ときどきパワーポイントの講習会でクリップアートの使い方というのをやります。検索して使うとき一番無難なものを使っています。キーワードを「家」「雪」で検索してもらってそれだけを見てやってもらいます。
他にいろいろなものを見られると、特に新人研修の子たちは楽しくって研修そっちのけでクリップアート探しに没頭してしまうからです。
でも和風なクリップアートすべて使ったプレゼンで笑い以外を取れるなんてすごいですね。私もいつかそんなプレゼンができる人になれるでしょうか・・・心配です。
二番目のクリップアートは、ESPテストの風景で、並んでいる人達はエスパーです(断言)。というわけで、極めて特殊な業界では、使えないこともないのです。
一昨日、パワーポイントの「使えなさ」について論じたエッセイを読み自分のblogで紹介したのですが、ちょうどこちらを読んだばかりだったので、ついついリンクをはらせていただきました。
「こちらを見ている強そうな人たち」は実際に使おうとしてことがあります。「社外アドバイザー」のつもりだったのですが、あとで見直してあまりにも怖い人たちなので外しました。
試しに買ってみた市販のクリップアートも最悪で(車関係の絵が無駄に多い。パッケージには一言もそんなの書いてないのに),結局「鳴かぬなら,鳴かせてみせようホトトギス」の精神で,使えないものを無理やり使ってます。なんか分からないけど場が和むことが多いです。
あのクリップアートを縦横無尽に使いこなすのは、エクセルのマクロを使いこなすより難しいと思ってます。
それはそうと、上に挙げられているクリップアートでも応用の仕方では実はかなり使えるものになるかもしれないと思います。
僕のブログの記事で紹介しているFLASHにパワーポイントのクリップアートがたくさん使われているというだけでトラックバックしてしまいましたが・・・お気に召しませんでしたらすみません!
私、「またこっち見てるよ! しかもさっきの人たちより強そうだよ。」のアートは”インターネットユーザ”として使ったことがあります。150人を前にそれでプレゼンしてしまいました。。。
えらい亀コメですが、「使える」パワーポイントについて真面目に書いているブログ(英語ですが)を見つけました。
でも人に見せるときには、パワーポイントの仕様に従うと便利。それでもVisioの方が好きなタイプですが。
「パワーポイントらしいパワーポイントを作る」セミナーの類ほど、あらゆる可能性を閉ざしてしまうものはなかなか見当たりませんね。しっかり英語読んでみようと思います。
パワーポイントの基本操作を紹介しています。スライドショーやアニメーションの使い方等を紹介しています。
パワーポイントの基本操作を紹介しています。スライドショーやアニメーションの使い方等を紹介しています。ほかにもクリップアートや表、グラフの挿入法やおススメパワーポイントの書籍などの情報が満載です。
「当社の下請けの、そのまた下請け、孫請けという関連で・・」といった説明のシーンでムリヤリ使うというのはいかがでしょうか?
漫画喫茶のバイトを始めてからワードとかエクセルとかパワーポイントとかようやく分かりかけてきている中谷です。とか思ってたら、女の人が泣き笑いながら店に入ってきて、しかもかぁなぁり酔っ払ってる様子で、・・・な、何があったんだろう・・・?あ、ごめんなさい。... >>続きを読む
仕事上で、会社の不条理具合に非常にやるせなさを感じたので 元同僚になんか楽しい事教えてくれとメールしたら、これを教えてくれました。 小鳥さんの 使えな過ぎて笑う、パワーポイントのクリップアート集 仕事で >>続きを読む

 

[ 941] 過ぎ去ろうとしない過去
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/

教育基本法が改正されたせいもあってか、最近愛国心教育をしなければならないという声が強い。だが、その愛国心の中身のほうはいまだ不明である。愛国心教育の支持者に愛国心とは何ぞやと問うてみても、愛国心はけして軍国主義のことでは無いのであって脊髄反射のように反対する左翼は……と左翼批判をはじめるばかりで肝心の愛国心については答えてもらえない。
同様のことは国旗・国歌問題についても言える。国旗・国歌は尊重すべきだという人に理由を問うと、国旗・国歌が国家を象徴しているからだという。だが、ではその国家とは何かと問い返すと、国旗・国歌を尊重しない教師は反日であると繰り返すのみであってやはり答えはもらえぬのだ。尊重するもせぬも尊重するものが何か知らなければ判断のつきようが無いと思うのだが、彼らは歌を歌うかどうかだけで尊重しているかしていないかわかるそうだから、もちろん国家についての深い見識を持っているに違いなく、私はそれをかねがね拝聴したいと思っているのだがいっこうに教えてはくれぬのである。
さて、非才な私には国家とは何ぞやという難しい問いについては答える術を持ち合わせていないのであるが、こと日本国家に関して言えば、それを答えることができる。いや、正確に言えば文字が読める人間ならば誰でもこたえることができるのである。なぜなら、日本国家はある文章によって明確に規定されているのであって、それを我々は日本国憲法と呼ぶ。日本国憲法は日本を自由主義と民主主義の国と規定しているから、すなわち愛国心とは自由で民主的な日本を愛するということでなければならない。また日の丸と君が代は自由で民主的な日本の象徴であるとみなされるのである。つまりハーバーマスが言う「憲法愛国主義(Verfassungspatriotismus)」である。Verfassungは日本語で言えば「国体」だが、わが国においてこの言葉が背負っている不幸な歴史を考えるとこの言葉は使うことが出来ない。しかし意味は要するに、愛国心の対象は国民国家=Nationにあらず、国家の理念型=Verfassungであるということである。
ところで、日本国憲法が施行されて以来、60年にわたってわが国は自由と民主の理念にそって運営されており、その実績によって我々がどれほどの恩恵を受けているかを考えれば、よもやこの2つの理念を愛することに反対する者はいないと思う。まして、この2つの理念を党名に記す政権政党の支持者ならば当然、愛国心の対象は自由で民主的な日本であることを理解しているだろうし、日の丸君が代も自由と民主の象徴であることに依存は無いはずである。
では国旗・国歌に反対する人々は、自由と民主に反対しているのだろうか?そうではない。彼らも当然自由と民主について賛成しているのである。実際、彼らは軍国主義を批判しているではないか。ただ彼らは、日の丸・君が代が軍国主義の象徴であると誤解しているだけなのだ。確かに戦前の擬似立憲制のもとでは、日の丸・君が代は反動的なものであった。ただ、コレに対して日本の為政者だけを責めるのは不公平であって、ホブズボームによれば1870年代以降、日本だけでなく、世界中どこでも、国旗・国歌は不幸にも「想像の共同体」のナショナリズムに利用されてきたのである。たとえばフランスの三色旗は共和主義のシンボルであったが、この時代以降、右翼の王党派も三色旗を振るようになるのである。1871年に統一されたドイツの国旗は、自由主義の象徴黒・赤・金ではなく、プロイセン軍国主義の象徴黒・赤・白であった。ちなみにナチスのハーケンクロイツも黒・赤・白である。しかし、もはやそのような時代ではない。ドイツには黒・赤・金が再び翻っているし、フランスのトリコロールも反政府デモにさえ翻っている。つまり自由主義のシンボルとして。そして日本も1947年を境に、日の丸・君が代は自由と民主の象徴に生まれ変わったのだ。彼らはそれに気付けていないのである。なぜ気付いていないのか?それは、国旗・国歌が「強制」されているからである。卒業式や入学式における国歌の演奏は、19世紀の古いナショナリズムの伝統であって、自由と民主の象徴にはふさわしくない。さらに、日本政府は日の丸・君が代について自由と民主の象徴であると表明するのをためらっているし、それどころか君が代の「君」は天皇であるという解釈を出しているのである。彼らが危惧するのも当然なのである。
しかし私が不可解なのは、この自由と民主の象徴が、教育現場において、指導要領の改訂によってさらに「強制」されようとしているということである。なるほど確かに教育に「強制」はつきものかもしれぬ。しかしそれは人間社会を営んでいくうえでどうにも仕方の無い妥協であって、そのことによって我々が自由と民主を諦めたなどという誤解はけしてするべきではない。まして、「強制」されようとしているのは自由と民主の象徴であり、それを「強制」しようとすることは少し考えればまったく滑稽でばかげたことだと理解できるはずだ。
を見れば、自由と民主の理念を理解している諸国は、そのようなばかげた真似は行わないという賢明さを持ち合わせていることがわかると思う。逆に、国旗・国歌が残念にも強く強制されている国は、まだ自由と民主がもたらす恩恵に気付けていない国が多い。また、わが国の前首相が「価値観を等しくする国」と呼んだアメリカ合衆国では、
のような判決が出ている。もちろん日本の愛国者たちもこの事例を参考にして賢い選択を行っていただけるに違いないと期待している。
中国政府は逮捕した市民や僧侶を即刻解放するべきだし、チベットに対する政治・文化・宗教的弾圧は行われてはいけない。もちろんぼくも同意見だし、その素朴な感情において主張を行い、デモに参加し、署名を書き、あるいは他の支援活動に参加することは、正当なばかりでなく事態を少しでも良い方向に近づけていくうえで、必要なことであると信ずる。弾圧にノーを突きつけることに対案は必要ないし、ある問題に声をあげていなかったからといって、別の問題に声をあげる正当性が失われるわけではない*1。
だがしかし、である。自分もチベット問題について何かを言わんと思考してみると、それは多大な困難を伴うものになってしまう。
つまり、われわれが、少なくとも、多少なりとも民族問題とチベットの歴史に関する知識がある者が、チベットの弾圧をやめよというとき、それは単に人身に対しての直接的な弾圧のみならず、数々の法や政策に基づく、政治・文化・宗教・コミュニティなど、文字通り「チベットの」弾圧をやめよと言っている。われわれはその立場に立つことによって、チベットの「暴動」は暴動では無いと言うことが出来る。そして、最近のチベットの問題は、根本的には「チベットの弾圧」をやめることにおいて解消されるということをわれわれは知っているのである。
しかし、「チベットの弾圧」をやめるということは、どのようなことを言うのか?独立か?ダライ・ラマが言う「高度な自治」か?あるいは他のやり方があるのか?
民族自決、という立場に立つならば、独立という選択肢がベストである、ということになるだろう。チベットは歴史的に中国の一部では無く、1950年以降チベットは中国に不当に支配されている。したがってチベット独立こそが弾圧の最終的な排除をもたらす。だが、もちろん民族自決という思想は、恣意的なスローガンでしか無い、ということは自明である*2。なぜ朝鮮半島は独立したが沖縄はそうではないのか。あるいは、なぜ東西ドイツは統一したがオーストリアは分離したままなのか。チベット周辺を見ても、チベットは中国領だがシッキムとアッサムはインド領である。そしてネパールとブータンはそれぞれ独立している。これらの事態に対して、民族自決の立場からは答えを出すことは出来ない。*3チベットは歴史的に中華帝国の圏内では無かったという主張には同意するとしても、それがチベット独立の正統性を保障するという「歴史主義」には組することは出来ない。ぼくは別にチベット独立という主張が間違っていると言っているのではない。ただ歴史的な正統性を基盤とする民族自決にコミットし、現実の政治に適用しようとすることで、不毛な歴史の帰属論争をするのは間違っている、ということなのである。日本でいえば沖縄の問題がこれにあたるだろう。民族の独立性を主張しつつ沖縄を分離させたくない右派は、日本は中華文明に属していないことをことさらに述べつつ、沖縄は歴史・文化的に日本の一部だと「証明」しようとする。民族問題で重要なのは、歴史の帰属ではなく歴史そのものなのに。
また、「現実的な」提言をしようとする人たちは「高度な自治」を支持することが多い。独立は状況的に難しいので「高度な自治」あたりが落としどころだろうとする。上に書いたように独立が自明で無い以上「高度な自治」は落としどころでは無いのだが、まあそれはよい。「高度な自治」はダライ・ラマや亡命政府が支持しており、確かにコミットすることは容易である。だが、「高度な自治」は民主主義の思想に基づくものである。が、当の中華人民共和国は民主主義国家では無い。はたして非・民主主義国家の中で、民主的な「高度な自治」は可能であろうか?こと、チベットに関しては民族・宗教・文化の面が絡んでいるのだ。タテマエにおいては、今でもチベットでは「自治」が行われていることになっている。それがまったくのタテマエであるからこそ、「高度な自治」という言葉が使われているのだが、その「高度」はどのくらいの高度になるだろうか。たとえばパレスチナは民主的な選挙が行われている「自治区」であるが、虐殺はまだ終わっていない。ソ連内の自治共和国からロシア連邦内の共和国に移行したチェチェンは?むろん、弾圧は制度によってではなく、政治的諸権力の構造によって行われるのだ。もちろん人身的な弾圧は排除されなければいけない。しかし、人身の弾圧は思想・宗教・言論・表現の弾圧とタッグを組んでいるのであって、後者が認められなければ前者は多少ソフトになることはあっても無くなる事は無い*4ことになる。それはつまり中国が民主化することを意味している。中国の民主化はなされるべきだが一朝一夕には行かないだろう。となれば、逆説的だが独立のほうがむしろ「現実的」な案にはならないだろうか*5。
さらに別の角度から見れば、独立にしろ高度な自治にしろそのような「民主的」な方法の結果が、人道や人権の面からチベットを支援している人々に満足を与えない可能性がある。パレスチナでハマスが「民主的」な選挙で勝利したときの欧米諸国の煮え切らない態度を想起すべきだ。もちろんダライ・ラマは1950年以前の農奴制を復活させようとはしていないと思う。しかし亡命チベット政府はダライ・ラマというシンボル無しにはありえず、そしてダライ・ラマは宗教指導者である。もし今後中国とチベットの対話を促していくうえで、世界のチベット支援の諸人権団体や組織、あるいは個人が、どこまで背中を押すことを続けていられるだろうか、という懸念は想起されざるを得ないだろう。
つまり何が言いたいのかというと、チベット問題において自らがコミットすべき選択がないなら、その選択肢の不在の中でチベット問題を語らなければいけないという現実を受け入れなければならないということである。何かを選択しなければチベット問題は解決しないという恐れから、信じてもいないナショナリズムの文脈に乗っかってチベット独立を主張するべきではないし、また結論が出ないからと言ってチベットについて考えることを止めるのも不誠実である*6。俺はチベット弾圧に反対だしそれを表明しているが堂々と言わない反対と言わない左翼は何だ、という態度は、まさに決断したものが決断しなかった者を笑うという危険な態度に他ならない。決断を尊ぶものは決断しないことを恐れる。典型的な例がまさに最近のアイヌ問題に関する2ちゃんやブクマの反応に見られる。「結局どうしたいの?」「結局どうして欲しいの?」そういう問題じゃねえんだよ。一方で、人間はあらゆることに言及できないというのも正論ではあるが、しかしそれを選ばなかった問題については、(糾弾する連中が「期待」する内容では無かったとしても)考えていいと思う。これは、内輪もめをやめて「小異を捨てて大同につけ」ということではない。そもそも「小異」はまったく「小」ではない。右翼も左翼もなんとなく一緒にデモをする、というべ平連的いいかげんさにはシンパシーを感じるが、だからといって隣で差別的な主張や歴史修正主義的な主張をされるのは困る。その意味において、ぼくは右翼と左翼が大同団結してチベットに対する弾圧を糾弾せよ、という主張は支持できない。考え続けながらもなお行動することと、行動が一致していれば考え方は何でもよい、というのは大きく異なる*7。事態が切迫している、というのはもちろんそうであるが、だとすればなお、弾圧には反対という以上の旗幟を鮮明にする強迫観念に突き動かされて動いても意味が無いのではないかと思うのだ。
*3:あるいは、もっと愚劣な方法で答えを出すことは出来る。つまり、たとえば沖縄人は日本にとどまることを「選択」したのだと
*5:ただし、独立は独立で旧ユーゴや東ティモールなどの暗い前例をわれわれは知ってしまっているのだが
*7:政治的には空気嫁と言われるのかもしれないが、その文脈で言えば本当に空気を読まなければいけないのは「シナ人死ね」などというネトウヨのほうだろう
lovelovedogさんが安仁屋政昭氏の議論に対して異論を投げかけるのは自由ですが、ことキーワードの問題に関する限り、もしwikipediaの基準に照らすならば、安仁屋氏の著作は沖縄戦の専門家が書いた学術的な研究書として、「信頼できるソース」として扱われるのに対し、あなたの異論は「独自研究」として扱われます。従って、いかにあなたが不同意な記述であっても、専門家の議論に即して書かれたキーワード編集には妥当性があるのであって、それに対してあなたが専門家の議論、あるいは専門家集団における通説的な議論を無視して、(あるいは、非・専門家の論説などには依拠しているのかもしれませんが)あなたの「独自研究」をキーワード登録しようとしたのは、キーワード登録の基準論(少なくとも学術的なキーワードに関してはwikipediaの基準を採用することに不同意ではないならば)において間違っているのみならず、それは「歴史修正主義的な」態度として理解されることになります。
「兵事主任」は「軍の命令を民間人に伝える、きわめて重要な人物」と、沖縄戦史研究家の安仁屋政昭は主張しているが、そのような事実は確認できず、また安仁屋政昭氏とその周辺の研究者以外からもそのような事実は確認されていない。googleで検索しても、戦史的に重要な役割を果たしたと思われる兵事主任は「富山真順」氏以外に存在しない。
「兵事主任」は「軍の命令を民間人に伝える、きわめて重要な人物」と、沖縄戦史研究家の安仁屋政昭は主張している
反対に、文禄・慶長の役では、数万の朝鮮人が日本へと略取され、大半はやはりポルトガル商人へと売却されたという、事実が確認できない情報がある[要出典]。
「兵事主任」は「軍の命令を民間人に伝える、きわめて重要な人物」と、沖縄戦史研究家の安仁屋政昭は主張しているが、その情報は事実が確認できない[要出典]。
前者は、「反対に、文禄・慶長の役では、数万の朝鮮人が日本へと略取され、大半はやはりポルトガル商人へと売却されたという、事実が確認できない情報がある」含めてが学術的な研究であるのに対し、後者は「その情報は事実が確認できない」はあなたの独自研究なので同じではありません。
こんなことは論理的に考えればすぐわかることなんで、詭弁なら詭弁でもっとましなものをよこしてください
「事実が確認できない情報がある」ことは初めから論点ではなくて、「事実が確認できない情報がある」と言っているのが誰かという問題なのです。具体的に言えば、研究者が奴隷の話の史料を読んでどうにもこの記述は疑わしい、という研究発表に基づいて「事実が確認できない情報がある」と言うことは記述するに値しますが、ネットで分ることしか調べようとしないような素人のあなたが個人的な見解に基づいて「事実が確認できない情報がある」と言うことは記述するに値しないのです。もちろんキーワードに関してのことですが。
これは別に権威主義でもなんでもなくて、つまり独自研究を認めれば、キーワードの気に入らない記述に関して、「俺はその事実を知らないんだ」と言い張って「事実が確認できない情報がある」と追記することをいくらでも正当化してしまえるからです。(学術)キーワードはキーワードであって論文でも研究書でもありません。従って全ての記述に証拠をつけることは出来ません。というか、既存の研究に依拠して書く限りそんなことはしなくてもいいのです。
ところがあなたのような人が「個人的な」疑問を引っさげてパブリックなキーワード編集に介入し、俺の個人的な見解をキーワードに反映させるべきだと言います。まさにこれがいわゆる「歴史修正主義者」の典型的な手口であって(たとえば教科書問題などを見れば分るでしょう)、どう見てもいいサンプルです本当にありがとうございました。
いえいえ、こちらこそ。どういう人がどういう風に「歴史修正主義」という言葉を使っているのか、少し参考になりました。
気が付いたら無駄に頑張っていたので、もったいないので晒してみた。まあ、奴隷の話が「学術的」なものかどうかは分らないけれど、
しかし、その「他者の尊敬」という規範に応じて暮らす者は、自律、自主の豊かで文化的な生活を過ごしている。おべっかも、裏表も、本音と建て前も、命令も、服従も、義務や権利もない。純粋に、なすべきことを探し、なせばいいのである。
いや確かに高校生くらいだとのめり込むのは分ります。ぼくものめり込んだもの。どれくらいのめり込んだからというとうっかり森村進を買ってしまうくらいのめり込んだ。
そういえば、『断絶への航海』が未来派みたいっていうのはなるほどだった。つまりマチズモじゃん?(ぇー
おや、やはり読んでましたか。これは失礼。反省。ところでバイキングの料理って(人口に対して)タダで無限にあるんでしたっけ?
「表現の自由」を掲げる論者たちが、このようなものに対してどう考えるかです。ぼくはべつにいいと思います。ホコ天ちょっと占拠するくらいで、誰にも迷惑かけてないし。ところが、これに対して「やりすぎ」と言う人がいます。また、「こういう人がいるから規制しろという議論が出るんだ」と非難する人*1もいます。偉大なるゾーニング主義者は、「表現の自由」を守るために「行き過ぎ」を禁止せよといいます。ロリコンに怯える少女のために二次元を規制するのは「表現の自由」に対して「行き過ぎ」だが、ロリコンに可視化される「行き過ぎ」たロリコンは隔離すべきだといいます。
昨年の野球オリンピック予選で、韓国がルール違反では無いものの「紳士的ではない」行為をしたということで非難を浴びました。
当事者たる日本代表と応援していた日本国民は確かに文句も出てくるでしょう。しかし、いろいろな記事のブクマとか読んでいると、どうもそのような文句のように見えないわけです。
曰く、韓国はルール違反はしていないけれど、越えてはいけない一線を越えてしまったので、ルールに新たな条文を加えなければいけないのが嘆かわしいということのようです。確かに、あるルールを他の人が想定していないやり方を行うことによって、ゲームの公正性が損なわれ、それによってルール改正が迫られることがあります。でも、なぜその責をそれを行った人に帰せられなければいけないのでしょう?それはつまり、ルールには書かれていないけれども、禁止されていることがあるからです。彼らはそれに違反したのです。でも、おかしいですよね。まさに何を禁止するかを決めるのがルールのはずではなかったでしたっけ?ルールに書かれていない禁止事項はどこに書かれているのでしょう?
「ロリコン」と「表現の自由」をめぐる諸問題にも同様のことが言えます。行為を切り離したところに「表現の自由」が引かれるとしましょう。しかし、我々は「表現の自由」で守られた「行き過ぎたロリコン」と「そうでないロリコン」の間にも線を引きます*2。この線は同じものでしょうか。違うものでしょうか。禁止はされていないけれど、「表現の自由」では守れないもの。これらを我々は一体何と呼べばいいのでしょう?
少なくとも今の世の中では「表現の自由」とは非常に限定されたところにあると言わざるをえません。いろいろな部分を制限された残りかすを、リベラリズムが「表現の自由」として守っているのです。そしてぼくはやはりゾーニングという行為は、ルールに書かれていないルールによってなされている行為だと思うのです。書かれているルールとはつまり「表現の自由」を擁する、堂々たる我々のリベラルな社会規範ですが。もちろんゾーニングをリベラルな社会規範の点から論じることは出来ます。ただそれはテクニカルです。プリンスホテルが日教組を排除した件について、我々はプリンスホテルをコンプライアンスの点から非難はできます。おおいにやるべきだと思います。でもそれはテクニカルです。プリンスホテルの本心は日教組氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ね氏ねであって、その本質に関する議論はなされなくてよかったのでしょうか。いやプリンスホテルごとき放っておいてもいいかもしれませんが、児童ポルノについては?
彼らはハナから表現の自由の土台にいないのです。いいですか。規制派の議論がばかげて見えるのは、規制したいという意識がばかげているからではなくて、児童ポルノにおいて規制派がリベラルな社会規範を納得させる論理構成に失敗しているからばかげているのです。buyobuyoさんは、恐怖の議論は児童ポルノ以外のところでやってくれと言いましたが、冗談じゃない。それでかれらがリベラルな社会規範に合致した論理的な規制論を出してきたらどうするんですか。弱弱しい「表現の自由」ではそれに対抗できないわけです。ぼくはいかなる論理だろうが、二次元が規制されるのは嫌です。
倫理の話が重要であるというのはそこです。繰り返しますが法律論による反対はおおいにやるべきだと思います。倫理の話と法律の話を区別するべきという意見もありますが、向こうははじめから区別していないわけです。だから反対する我々もそれが必要なのです。

 

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