もっととは?/ マイワン
[ 660] 週刊がん もっといい日
[引用サイト] http://www.gekkan-gan.co.jp/
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本欄で、度々、前立腺がんに侵された少年野球チームのコーチのその後を紹介してきましたが、実は昨年の夏、同チームの監督が狭心症と診断され、緊急にカテーテル治療を受けました。 たまたま市の健診で発見されましたが、心臓部の血管がほとんど詰まっていて、「通勤途中や運動中に倒れても、決して不思議ではなかった」と医師に告げられたそうです。「胸が痛い」「息苦しい」といった自覚症状はなかったのですが、知らず知らずのうちに血管が詰まっていたのです。 忍び寄る心臓の病。死の一歩手前だったことを、医師から告げられた監督は、その日を契機として、脂っこい食事をやめて野菜中心の食生活に切り替え、カテーテル治療後、8か月を経過した今、何事もなく過ごしています。 身体を心配した若いコーチたちには、「爆弾をかかえちゃった・・・」と、こともなげに話した監督ですが、それにしても自覚症状がないままに、通勤途中での死もありえたわけです。「検査で命拾いをした」監督は、少年野球チームのスタッフたちに、メタボリックシンドロームの健診が始まることを伝えたことは言うまでもありません。 10年ほど前までは、外科治療の第一線で活躍していたと土橋医師。「自分自身、非常に競争心が強く、常に目立っていたいという意識があった」と当時を振り返ります。 「医学部を卒業後は、外科という熾烈な競争社会に身を置くことになったのですが、突出するには、人と違うことをしなくてはならない。そこで卒後4年目にして、当時、まだ西日本では行われていなかった内視鏡を使って食道静脈瘤を治療する、食道静脈瘤内視鏡的栓塞療法を手がけるようになりました。最先端の手法ということで問い合わせが殺到し、10年間で約2000例に、この新しい治療法を行いました」 若手医師のホープとして、周囲から一目も二目も置かれるようになった土橋石は、さらに、「それだけ手がけるとさすがに違うことをしてみたくなった」と、次に向かった先は、日本で始まったばかりの腹腔鏡下胆嚢手術でした。それから8年もの間、年間100例近くの症例を手がけることになったそうです。 ばりばりの外科医だった土橋医師は、あるときを境に、自ら第一線を退くことになりました。それは、確固たる専門性を確立し、上を目指したいという目標がある程度、達成されたときのことです。 「それなりの目標を達成したかと思ったとき、自分でも予想外の虚脱感に襲われてしまったんです。そこで、ここらで少し距離を置いて医療を眺めてみようとなったとき、自分が今までしてきたことは、いったいなんだったんだろうと、ふと考え込んでしまったんですね」 医療を客観視したとき、土橋医師が気づいたのが、「西洋医学は病気を根本的に治していない」という現実でした。 「西洋医学は、私がしてきたような、救命のための手術などの処置、外傷の治療などには優れた力を発揮します。しかし、それは“修繕”であって、原因に対する治療行為ではありません。そして今までのやり方で、今後、どんなに進歩したとしても、西洋医学だけでは、生活習慣病やがんといった慢性疾患を根本的には治せないでしょう」 また医療経済の点からみても、患者さんが治らずに病院に通い続けてくれたほうが、医療機関は儲かるのが、今の医療システム。 「そんななかにあって、医師も患者さんの病気を根治しようという意識が薄れているのではないかと思ったでのす」 そこで土橋医師は、方向変換をしました。それは、「患者さんの病気の根本原因を探り、根治に結びつく治療をしていこう」という決意からでした。 そう考えた土橋医師は、知人の紹介で帯津三敬病院に勤務することになり、がん患者さんに、“生活史を訊く”試みを始めました。病気になった原因を探らない限りは、いくら手術しようが薬を飲もうが、意味がないのではないかとの考えからでした。 「患者さんには、乳がんの方が多かったので、乳がんの方に絞ってインタビューを始めました。ところが、これが甘かった。私の当初の仮説では、患者さん一人ひとりに、がんになるまで、どのような環境で、どんな思いで生きてきたのかを質問することで、そこに何か共通点を見出せるだろうと思っていたんですね。ところが実際に話を訊いてみると、みなさんばらばらで、まったく共通点が見つからないんです」 諦めかけた土橋医師は、ふとした思いつきで、乳房の右側に腫瘍ができた方と、左にできた方とに大きく分けて、それぞれの共通点を探ってみることにしました。 「すると、思いもかけず共通する部分が見つかったのです。大まかに言うと、右側にできた方というのは、自分の主張がしっかりしていて、競争社会のなかでものし上がっていけるような、理論的でどちらかというと男性的なタイプなんですね。しかも、思うようにいかないことがあると、強い心理的ストレスを感じてしまう人が多いのですが、それが長年に渡るあまりストレスがかかっていることを自覚できず、“なぜ、乳がんになったのか分からない”とおっしゃることが多いんですね」 一方、左側にできた方というのは、「乳がんになった心当たりがある」と自覚をされている方がとても多く、また、ほとんどの方が、がんと診断される約半年前に大量の仕事を背負わされるなど、とくに肉体的ストレスを受けてきた傾向があるそうです。また、こうした「心」と「病」の関係の話しを受け入れやすいのも、左側の方の特徴なのだそうです。 医療を客観視したとき、土橋医師が気づいたのが、「西洋医学は病気を根本的に治していない」という現実でした。 「西洋医学は、私がしてきたような、救命のための手術などの処置、外傷の治療などには優れた力を発揮します。しかし、それは“修繕”であって、原因に対する治療行為ではありません。そして今までのやり方で、今後、どんなに進歩したとしても、西洋医学だけでは、生活習慣病やがんといった慢性疾患を根本的には治せないでしょう」 また医療経済の点からみても、患者さんが治らずに病院に通い続けてくれたほうが、医療機関は儲かるのが、今の医療システム。 「そんななかにあって、医師も患者さんの病気を根治しようという意識が薄れているのではないかと思ったでのす」 そこで土橋医師は、方向変換をしました。それは、「患者さんの病気の根本原因を探り、根治に結びつく治療をしていこう」という決意からでした。 そう考えた土橋医師は、知人の紹介で帯津三敬病院に勤務することになり、がん患者さんに、“生活史を訊く”試みを始めました。病気になった原因を探らない限りは、いくら手術しようが薬を飲もうが、意味がないのではないかとの考えからでした。 「患者さんには、乳がんの方が多かったので、乳がんの方に絞ってインタビューを始めました。ところが、これが甘かった。私の当初の仮説では、患者さん一人ひとりに、がんになるまで、どのような環境で、どんな思いで生きてきたのかを質問することで、そこに何か共通点を見出せるだろうと思っていたんですね。ところが実際に話を訊いてみると、みなさんばらばらで、まったく共通点が見つからないんです」 諦めかけた土橋医師は、ふとした思いつきで、乳房の右側に腫瘍ができた方と、左にできた方とに大きく分けて、それぞれの共通点を探ってみることにしました。 「すると、思いもかけず共通する部分が見つかったのです。大まかに言うと、右側にできた方というのは、自分の主張がしっかりしていて、競争社会のなかでものし上がっていけるような、理論的でどちらかというと男性的なタイプなんですね。しかも、思うようにいかないことがあると、強い心理的ストレスを感じてしまう人が多いのですが、それが長年に渡るあまりストレスがかかっていることを自覚できず、“なぜ、乳がんになったのか分からない”とおっしゃることが多いんですね」 一方、左側にできた方というのは、「乳がんになった心当たりがある」と自覚をされている方がとても多く、また、ほとんどの方が、がんと診断される約半年前に大量の仕事を背負わされるなど、とくに肉体的ストレスを受けてきた傾向があるそうです。また、こうした「心」と「病」の関係の話しを受け入れやすいのも、左側の方の特徴なのだそうです。 こうして、多数の患者さんへのインタビューを通し、「心」と「病気」の関連性を見出した土橋医師は、それからというもの、がんの相談に訪れる患者さんには、「病が治るときには、心の変容が伴う」ということを一貫して伝えていくようになりました。 「方法論としては、たとえば乳がんの場合、右の方と左の方の生き方は対極にあるのですが、ちょうど真ん中にくるようにもっていってあげることが大事だと説いています。つまり、それぞれの方が心理的、肉体的ストレスを溜め込まないよう、“ほどほどに手を抜いて生きていきましょう”という気づきを与えることなのです。がん患者さんの大半は真面目に生きてきたのです」 がんの原因が、その方の生き方にあるとすれば、根治していくには、いったん、これまでの生き方をリセットすることが必要であるというのが、土橋医師の主張です。 「もちろんリセットの仕方は、それぞれが置かれた環境で違います。そのため、私からは、治った方は、こんなふうに考え方が変わりましたよ、というお話はしても、具体的にどう変えていくかという方法は何も言いません。その方、自身で見つけていくしかないと思っているからです。私がかかわってきた患者さんのなかで、がんが消えた患者さんは、必ず意識の変容を伴っています。矛盾に聞こえるかもしれませんが、がんというのは、治そうとすると、なかなか治らないものなのです。西洋医学的治療などで、がんを治そうとすることそのものが、がんを意識することになり、恐怖につながるわけですから・・・」 それでは、がんとは、どういうスタンスで付き合っていくのがよいのでしょうか。最後に、土橋医師にヒントをいただきました。 「がんと対峙するのではなく、“がんを無視して生きよう”と思うことです。さらに言えば、治そうとはせず、今までとは違う生き方をしていくのです。このことが、ものすごく大きな力になるんです。がんにとらわれず、新しい目標を持って生きる。そうした“突き抜けた”生き方が、結果としてがんの治癒をもたらすのだと思います」 退院後1か月の検診で、その結果が明らかになります。私の食道がんは、幸い他の臓器への転移はなく、原発巣だけに留まってはいたものの、頸胸境界部18〜20cmもの大きな病巣でした。 しかもリンパ節が腫れていたので、ステージIIIという診断でしたから、手術後1か月したら、抗がん剤の治療となることが予想されていました。 まだ手術創部の痛みや食事のリハビリの苦しみに堪えていて、しかも抗がん剤治療が加わってしまったら・・・と思うと恐ろしい気がしましたが、そのときはそのときだ!という感じで、あまり悩まないことにしました。 奇跡的に喉頭切除が免れて、声を失わずに済んだのですから、辛い治療の覚悟はしなければなりません。そして、それと同時に、代替医療についても、密かに考えておりました。 私が以前、食道がんと診断されたときのことですが、治療を手術にするか、放射線+抗がん剤にするか迷っていたときに、元食道癌専門外科医の帯津良一先生が書かれた『帯津流がんと向き合う養生法』という本を読んで、代替医療という方法もあることを知り、食養生や漢方、気功、呼吸法、温熱療法、音楽療法等々様々な代替医療を専門にされている帯津三恵病院に、問い合わせてみたことがありました。 国立がんセンターで手術が済み、退院してリハビリ中の身で、違う病院に行くのはどうかと思いましたが、これから抗がん剤の治療をしなければならないとしたら、それを止めて代替医療で再発を防ぐ方法も検討しておきたいという考えがあったのです。 せっかく3か月も前から予約をとっておいたのだからと、退院したばかりで身体は辛かったのですが、ちょっと無理をしてでも、帯津三恵病院へ行ってみることにしました。 「西洋医学が発達し、優れた技術や高度先進医療が医療のすべてと思われがちだが、それは技術と知識の受け渡しにしかすぎない。医療というものは場の営みで全体のエネルギーを上げていくものだから、医師と患者は対等の立場に立ち、一体とならなければ良い医療は行えない。医療という場の営みで、患者はその場の真ん中にいる。家族や友人は病気になる以前からのつきあいだが、病気になってからは医師や看護師、検査技師、薬剤師等といった人達が加わって1つの場をつくる。そしてその人達がそれぞれ自分の生命の場のエネルギーを高めながら相手に絡んでいって、相手の場も引き上げる。お互いにそうする事で、全体の場のエネルギーが高まってくる」 私は、国立がんセンター東病院で、高度先進医療の優れた技術と医療チームスタッフの高い意識の場のなかで、自分のエネルギーもかなり高まっていく体験をしたので、帯津先生の言葉が、ものすごくしっくりいきました。 帯津三恵病院は、私が実践している玄米菜食や丹田呼吸法も取り入れていて、気功の会も行っていると本に書いてあったので、きっと医療スタッフも、患者さん達も一体となって活気に満ちていることだろうと、かなり期待をしていました。 国立がんセンターの退院サマリー(情報提供書)と保険証を持って妹に付き添ってもらい、延々と2時間半かけて埼玉県の南古谷、帯津三恵病院へ行ったのですが・・・・。 病院に1歩足を踏み入れた時の感覚は、国立がんセンターの時の心地良い緊張感とは全く違う感じでした。帯津先生は、ザックバランで感じの良い先生でしたが、受付の対応、医師、看護師など医療スタッフ、患者さんの雰囲気など、どれもとくに問題があるわけではないのですが、覇気が感じられず、残念ながらこの病院全体から、場のエネルギーを感じとることができませんでした。 ただ、自分自身が実践してきた玄米菜食や丹田呼吸法なども取り入れていることに、改めて意を強くした次第です。 私の担当医の一人、三重野先生と、担当看護師のなずなさんや他の看護師さん達と再会し、外来では一緒に入院していた昌子さんや斉藤さんにも会えて、いろいろ話に花が咲き、あっという間に時間が過ぎてしまいました。 予約時間よりも早めの11時前に、大幸先生に呼ばれて診察室へ入ると、大幸先生は笑顔で迎えてくれました。 食事の際の異物感や呼吸困難のことを大幸先生に訴えると、「手術時の縫い目の吻合部が内側で盛り上がっているのは治らないから感覚的なことは慣れてください」と言われました。咽せ込みのタイミングも、うまく対応できるように、慣れていかなければならないのです。 「傷はある程度、痛くても痛み止めを使ってどんどん運動した方が良いです。息切れがするのは運動しないからです」と言われてしまいました。 「あんなに大きい癌の病巣だったのに、リンパ節への転移がないのは考えられない」ということで、大幸先生も思わず病理に電話をして聞き直したと言います。こういうケースは極めて希なのですが、膿瘍(ウミ)が邪魔をしてリンパ節転移が免れたらしいのです。 そんなわけで、抗がん剤の治療は必要なくなり、1か月後の5月11日に検診日が決まりました。次回は、胸部レントゲン検査と血液検査で、腫瘍マーカーなどを調べることになりました。 ホッとしたら、ジーンと体中に染みわたるような感動と感謝の気持ちが、こみ上げてきました。こうやって何度も奇跡が起こるのは、きっと家族や友達やYHのお客さんなど、たくさんの人々が応援し、祈ってくれたお蔭なのです。そう思うと、手術痕の痛みとか食事の際の苦しみなど、小さなことに感じられてきました。 ゴールデンウィーク、年末年始、皆さんの思い思いのテーマを胸に秘め、四万十川を一緒に太平洋まで漕ぎ出してみませんか? 崇高な神が宿っているという伝説の清流四万十川で、みなさんも思い思いのテーマを胸に秘めながら、闇から光へ向けての一日の始まりを一緒にカヌーで漕ぎ出してみませんか? このイベントのテーマは、『再誕生』、コンセプトは、「大自然の目覚めと共に真実の自己への目覚めを体験する」。 皮膚の表面や正常組織にはほとんどダメージを及ぼすことなく、がん細胞にのみ強力な攻撃をかけることができる重粒子線治療。この分野において日本は世界のトップを走っているが、そのメッカとも言える千葉市にある放射線医学総合研究所(放医研)ではこのほど、登録患者数が間もなくのべ約4000人に達する見込みであると発表した。骨肉腫や大腸がんの手術後の骨盤内再発など、外科的手術よりも好成績を示すがんもあるこの治療法。安全で確実性が高く、それでいて身体的な侵襲度はきわめて低いことから、治療を希望する患者は右肩上がりで増えている。近年では放医研以外でも重粒子線治療設備の建設に取り掛かる医療機関も出始め、今後受け皿は確実に広がりそうだ。 放射線には電磁波の一種であるエックス線やガンマ線、また陽子線や速中性子線のような粒子線があり、重粒子線は粒子線に分類される。比較的粒子の小さい陽子やヘリウムに対して炭素、ネオン、シリコン、アルゴンなど粒子が大きい放射線を重粒子とよび、これが大きいほど生体に対する作用は大きくなる。 放医研重粒子医科学センターではこれら重粒子のうち「炭素」を用いたがん放射線治療を行っている。ガンマ線に比べて生体への作用の強さは3倍で、しかも周囲の正常細胞にはほとんどダメージを及ぼすことなく、たとえ患部が皮膚表面から遠い部分にあっても、がん組織にだけ集中的に攻撃をかけることができるという特性をもつことから、安全性と効果の両面で優れたがん治療法として期待される先端医療だ。 HIMACによる重粒子線治療の、がんの部位別治療登録患者数は以下の通り(カッコ内は登録者数と全体に対する割合)。 「脳幹や腸管壁に浸潤していたり、すでに転移が全身に分布しているがんは治療対象から外れるが、局所に限局しているがん組織にはきわめて高い治療効果が確認されています。特に頭頚部や前立腺、肺、肝、骨軟部のがんには向いている」と辻井医師。こうした情報がメディアで取り上げられるたびに、同センターには受診希望や問い合わせの電話が殺到するという。 放医研でのこうした実績を受けて、他の医療機関でも重粒子線治療の導入を検討する動きが活発化している。しかし、イオン粒子を十分に加速させて患者のがん組織に照射するためには、きわめて大がかりな加速装置を必要とする。そのため、がん治療だけでなく、生物・物理学分野での実験にも利用されるHIMACは、じつにサッカー場一つが丸ごと収まる巨大な施設を擁している。 しかし、これをがん治療だけに限定するのであれば、コンパクトに改良する余地はある。事実、現在群馬大学が建設中の重粒子線治療施設は、放医研のHIMACの三分の一ほどの大きさに縮小されたものの、性能においてはHIMACと同等水準を維持するものとして期待されている。この群馬大学の装置の建設は放医研の協力によって進められているものだが、この普及型重粒子線治療施設が実績を上げれば、全国の拠点病院での重粒子線治療の導入に拍車がかかる可能性がある。 また本丸の放医研でも、HIMACと連結する形でより高度の照射が可能な重粒子線治療施設の建設が進められており、高まるニーズへの対応が着々と進んでいる。 安全で確実性の高いがん治療――。この夢のような治療法が、「開発」から「普及」の段階に入ったことは確かなようだ。 「私は、姉の生涯と闘病生活を振り返り、当時の出来事を綴りました」−32歳で永眠した著者の姉のがんとの闘いの日々を克明に記した書『あなたの笑顔を忘れない』は、繊維形成性小細胞性腫瘍に侵された女性と家族との触れ合いが綴られています。 太陽のように輝いて周りを照らし、春の陽射しのように、周りを暖かく包み込むような元気な子どもに育って欲しいとの願いから、両親が名づけた名前が「陽子」(筆者の姉)。姉の誕生からの軌跡をたどりながら、楽しかった姉との思い出をふりかえる妹。 突然、「がんの可能性がある」と医師から告げられた姉からの連絡。そして宣告、手術、がんとの闘い・・・。やがて死。姉との別れ。娘に先立たれた母親の辛い心の胸の内。筆者は、克明につづります。「来世も、お姉ちゃんと姉妹になりたい」-かけがいのない姉を失った妹。そんな日々の思い出を一冊の本に記した本書。ぜひ手にとって、お読みください。新書判、本文128ページ。新風舎刊。1200円+税。 抗がん剤を投与しても、卵巣から転移している悪性腫瘍のせいか、姉の腹痛は日に日に増していきました。主治医の先生方は、痛み止めの飲み薬や、モルヒネで対応してくれていましたが、昼間病室に来客が居ても寝ているといった状態、夜になると目がさえて眠れない闘病生活で、激痛から逃れるためにモルヒネを使っても、今度は吐き気、嘔吐の繰り返しでした。 腫瘍摘出のため、開膜手術を試みたものの、手の尽くしようがなく、そのまま閉膜していました。わずか2時間ほどの手術時間でした。そして、それからは、「覚悟していてください」「今週越せるかどうか」「抗がん剤投与時に亡くなる可能性もある」など、厳しい状況であることを毎週告げられていましたが、誰も『覚悟』なんてしていませんでした。誰も、彼女が死ぬなんて思っていませんでした。 1%の可能性(生存)を信じて見守るだけしかできない家族と、悪性腫瘍としか知らされていない姉本人。激痛のまま永遠の眠りにはいった彼女に、もう問うことはできないですが、「あの治療で良かったのか」「やれることはやった」と思うのは、ただの家族のエゴではないかと、2年経った今日も感じています。 どんな治療をしたいのか、どこで治療をしたいのか、そこが最期の場所となる覚悟で希望を聞きたいところですが、実際はナイーブになっている患者に、悟られないように答えを引き出すのは、安易なことではありません。 「手術が済んで四日しか経ってないんですが、食事がでるんですか」と、私は中途半端に首をかしげながら、笑顔で答えます。 看護師が「大丈夫ですよ。皆さん、しっかり食べて歩いて、退院されていますから」と慣れた手つきでベッドを直してくれました。 「食事が取れるようになると、痛い点滴もしなくて済むようになりますよ。じゃあ、明日の朝食からです」と看護師は足早に出て行きました。 私は点滴の失敗で、青黒く変色した手の甲を見ながら、手術前に医師から貰った、入院診療計画書に眼を通しました。確かに、術後4日目で食事開始とあります。だが私は、手術のショック、術後に声が出なくなったこと、これからのがんとの闘いのことなどで疲れ切ってしまい、一向に空腹を覚えていなかったのです。 私はゴクリと、のどを鳴らし手渡されたパンフレットに眼を通ました。パンフレットは大きく二つに仕切られ、一つにはステーキ中心の西洋料理、もう一方には刺身や煮物が鮮やかに飾り付けられていました。 「入院中にフランス料理が食べられるのか。きっと、栄養をたっぷり取ってがんと闘え、ってことなんだろう」 がん宣告以来、地獄への穴底を、日々掘り下げているような気持ちが続いていましたが、少し軽くなった気持ちでハンドルを握り家路についたのです。 「西洋料理は部屋の雰囲気が大切だ」と、つぶやきながらカーテンを開け、朝の光を部屋中にあふれさしました。 そしてテーブルには、見舞客から貰った花を飾り、来客用ソファーに腰をおろしました。食欲は無かったのですが、終戦直後の貧しい暮らしを経験している私にとって、食い意地とフランス料理の響きに魅せられたかのように、ひたすら配膳を待ったのです。背筋を伸ばして待つこと20分。 私は大きく深呼吸をし、器の上蓋を、生唾を飲み込みながら取り、眼の前の食事を見ました。するとテーブルには、おもゆ、カボチャ色したスープ、赤ちゃんの離乳食用スープ、乳酸飲料が並んでいました。 スプーンに手を伸ばし、まずは、おもゆから・・・。おもゆを一さじ口に運びましたが、これが見事に、まったく味がありません。すぐに隣の黄色いスープを、一さじ、すくい上げましたが、一口で降参しました。 離乳食用スープは、見ただけでパス。せめて乳酸飲料だけは、と一口飲んだところ、酸味がのどを刺激し「ゲホッ」と吐き出してしまいました。そのとき、腹筋に力が入り、手術部位を鋭い刃物で切り裂いたような痛みが走りました。手にした乳酸飲料を投げだし、ソファーにうずくまること10分。後は、「フランス料理」にいっさい手を付けることはできませんでした。 私のフランス料理の夢は、涙眼で終えました。そして、淡い夢から覚めた私を待っていたのは、腸閉塞の悪夢だったのです |
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