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プリンスとは?/ マイワン

[ 1767] プリンス (ミュージシャン) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9_(%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3)

1978年のファーストアルバム以降、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ジャズ、ニュー・ウェーヴ、ヒップ・ホップを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでいる。ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーヴメントの中心的存在。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、またどれほど優れた曲であろうともアルバムの流れから外れた曲は表に出さないという主義から、多大な数のブートレグを生んでいる。その特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。
プリンス・ロジャース・ネルソンはジャズミュージシャンを両親に持ち、音楽とともに育った。その少年期はさまざまな逸話に包まれている(そのいくつかはプリンス本人によって話題作りのために広められた)。その最たるものが「プリンスの父親が黒人で母親が白人である」ということであるが、実際には両親ともに黒人である。
ジュニアハイスクール時代に友人や従兄弟らと共にバンドを結成したプリンスは長じるにつれ頭角を現し、ミネアポリスサウンドと呼ばれるムーブメントの中心的存在として注目を受けるようになる。
メジャーレーベルはこぞってこの才能に溢れた少年との契約を望んだ。そして、1977年に数社の入札の結果、ワーナー・ブラザーズと契約。19歳の少年としては異例の高額な契約金とセルフ・プロデュースの権利を同時に獲得する。
1981年には Controversy を発表。同名シングルがインターナショナルチャートにランクインする。また同時期にザ・タイムのデビューアルバムをプロデュースする。プリンスはなぜかプロデューサー業をペンネームで行うことが多い。ただし、プロデュースというのは名ばかりで、実際には作詞作曲演奏のすべてを行っている。この他にもヴァニティ6(アポロニア6)、シーラ E.などをプロデュースし、プロデューサーとしてもその非凡さを証明する。また、シーナ・イーストンやバングルスなど他の歌手への楽曲提供も少なくなく、さらにはプリンスの曲をカヴァーするアーティストも多く、ケイト・ブッシュ、チャカ・カーン、トム・ジョーンズ、シンニード・オコナーなどが代表格。日本では白鳥英美子や矢井田瞳が Nothing Compares 2 U をカヴァーしている。 この時期に、なぜかローリングストーンズの前座としてツアーを行っており、おそらくはその全くの音楽性の違いからであろう、公演によっては、物を投げつけられるなどの客からのブーイングを受けた。
1980年代を通じてプリンスのバックバンドとしてレヴォリューションが、1990年代からはニュー・パワー・ジェネレイションが存在する。プリンスは魅力ある女性を積極的に登用することでも知られ、シーナ・イーストン、キム・ベイシンガーやカルメン・エレクトラなどが挙げられる。その一方でマイルス・デイヴィスやジョージ・クリントン、ラリー・グラハム、メイシオ・パーカー といった著名なジャズやファンク系のミュージシャンとのセッションを行っている。また、マドンナ、アーニー・ディフランコ、グウェン・ステファニー や チャックDともレコーディングを行っている。
プリンスの自伝映画として製作されたこの映画は、6800万ドルの興行収入を得て週間ボックスオフィスで1位、年間で11位という堂々たる成績を収めている。なお、同年のアカデミー賞歌曲・編曲賞を受賞している。オスカー像はのちにプリンスが設立したペイズリー・パーク・スタジオの一角に大事に飾られているという。
同年、The Black Album がレコーディングされるが、発売直前になって発売が中止される。歌詞があまりにも攻撃的だったということが理由とされているが、やはりここでもワーナー・ブラザーズとの確執があったためとも言われる。この音源はブートレグとして世界最高の売上であろうと思われる500万枚以上が販売された。同アルバムは最終的に1994年にワーナー・ブラザーズから発売されている。
1989年、コマーシャル的な低迷期を迎えていたと思われていたプリンスは映画バットマンのサウンドトラックを担当する。サウンドトラックとされているものの、その実は映画にインスピレーションを得たオリジナルアルバムとなっている(映画オリジナルスコア楽曲集は別途発売)。初回限定で缶入りCDも発売された。アルバム、およびシングルカットされた Batdance はチャート1位を獲得する。またこの時、日本のミュージシャン小比類巻かほるへの楽曲プロデュースも話題になった。
1992年にはタイトルをシンボルマークにしたアルバムをリリースする。発音不明のためラブ・シンボルと呼ばれている。全米5位、100万枚のセールス。
1993年、プリンスはワーナー・ブラザーズと再契約を交わす。アルバム6枚分の長期契約であった。その契約金は、当時の音楽史上最高額となった1億ドル。さらにワーナー・ブラザーズの副社長の座につき、アルバム発表ごとに、200万ドルの報酬金を受取るという破格の条件であった。しかしプリンスにとっては、今まで以上に作品に規制が掛かり、自分が望むような自由な活動が出来ない事に不満が溜まり、お互いの信頼関係が崩れ始める。同年、独自レーベルのペイズリー・パーク・レコードが、プリンス以外のアーティストのセールス低迷などを理由に閉鎖。それと同時にインディーズレーベルとしてNPGレコードを設立する。
この時期から2000年代にかけて、プリンスは多くのライヴをこなしている。ライヴ会場は大きなアリーナだけではなく、小さなクラブで深夜にごく少数の観客を集めて行われている。入場者は5人から2500人というような小規模なライヴは、ときおりペイズリー・パーク・スタジオでも行われたという。
2000年、ワーナー・ブラザーズ傘下の出版会社ワーナー・チャペルが管理する出版権が切れるのを機に、自分の名前を正式にプリンスに戻すと発表。
2月4日に行われた第41回スーパーボウルのハーフタイムショーに出演し、パープル・レインを含むメドレーを披露した。視聴率は、アメリカのテレビ史上3番目の高さで約3億人が見たといわれている。
いまだに衰えを知らぬ創作活動、および数千曲とも言われる膨大な楽曲ストックを後ろ盾に、そのアルバムのリリースパターンはデビュー以来一貫して「年(最低)1作品」が原則である(唯一、1983年のみツアー活動、および映画制作等の関係でリリースが見送られている)。

 

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