マイワンのサイトです。
石川  長い  笑い  明解  フォーム  勝ち  さくら  順風  期待  査定  把握  一役  一杯  flashvars  スキップ  切っ  究極  使い勝手  トイチ  除く 

渡しとは?/ マイワン

[ 948] 隅田川の渡し - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%B8%A1%E3%81%97

長らく奥州や総州への街道筋に合わせていくつかの渡しが存在した。戦国時代以降に徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
江戸時代を通じて渡しは増え続け、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡しの存在が確認できる。関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、昭和41年(1966年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、隅田川の渡しは姿を消した。
ここでは隅田川の主な渡しを、上流から列挙する。名称と渡船場所は時代とともに変遷しているため、代表的なものを記す。
「神谷の渡し」とも称された。現在の新神谷橋付近にあったもので、江戸期においては主に西新井大師への参拝客や荒川堤への花見客などを乗せていたようである。大正13年(1924年)6月に荒川放水路が開削されると、一帯は放水路と隅田川にはさまれて中州のように孤立した地域となったために後述する野新田の渡しと共に整備が進んだ。昭和37年(1962年) 10月に新神谷橋の架設工事が着工され, 同40年(1965年)10 月に片側車線が開通することになり、宮堀の渡しはその役目を終え、昭和35年の冬に廃止された。北区の宮堀児童公園内に碑が残る。
「馬場の渡し」とも称された。現在の新田橋付近にあったもので、主に現在の足立区付近の農産物を江戸市中に運ぶ農業渡船として使われていたようである。付近は俗に「野新田の原」と呼ばれ桜草の名所であったという。昭和16年(1941年)の新田橋架橋によって廃止された。
六阿弥陀詣をして霊場を巡る際に必ず使う必要があったため「六阿弥陀の渡し」とも称された。現在の豊島橋の上流200mほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所にあった。大正14年(1925年)の豊島橋架橋によって廃止された。
「船宮の渡し」とも称された。足立郡江北村(現在の足立区宮城付近)から、堀船(現在の北区堀船4丁目)にあった下野紡績工場へと通う女工たちの通勤用に、両岸の有志によって明治42年に作られたという記録が残る。駒込の市場への出荷の車を、戦争の頃は足立の軍需工場へ通う人々を、梶原銀座への買い物客らを、何往復もして運んだ渡しだったが、交通路の発展に伴い昭和36年(1961年)に廃止された。北区の白山堀公園入り口に案内板が残る。
現在の小台橋付近にあったもので、江戸時代より江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わっていた。明治期以降は東京府が運営していたが、交通量の増大に伴い昭和8年(1933年)に小台橋が架橋され、後に廃止された。
「尾久の渡し」とも称された。現在の尾久橋付近にあったもので、大正中期から昭和にかけて利用されていた。下流の尾竹橋や上流の小台橋が開通した後は徐々に利用客が減少したものの、昭和25年(1950年)まで利用された。尾久橋のたもとに案内板が残る。
現在の尾竹橋の上流200mほどの位置にあり、荒川区町屋五丁目と六丁目の境付近から、足立区千住桜木町を結んでいた。東側にあった後述される尾竹の渡しに対し、新たに設けられたので新渡しと称したという。明治後期に整備され、昭和9年(1934年)の尾竹橋架橋後に廃止された。しかし、「新渡し」の名は都営バス王45系統の停留場名に未だに残されており、2006年に新設されたコミュニティバスはるかぜ宮03系統にも、都営バスと同位置のバス停名に「新渡し」の名が使用された。
現在の尾竹橋の下流300mほどの位置にあった。付近に「富士見屋」「柳屋」「大黒屋」という 三軒の茶屋があったため「お茶屋の渡し」とも称されたという。また「尾竹」の名も「お竹」という茶屋の看板娘から名付けられたと伝わっている。天保年間(1840年〜)に開設され、昭和9年の尾竹橋架橋後もしばらく運行されていた記録が残る。千住、西新井大師方面へ向かう交通路として重要な役割を果たした。
現在の上水千住水管橋付近にあった渡し。京成電鉄隅田川橋梁の上流100mほどの位置にあたる。千住と町屋を結んでいた生活道路であったという。名は付近の庚申塚にあった大きな松の木に因むといわれる。この松は元禄6年に町屋村と三河島村との境に植えられたと伝えられ、後に戦災で枯死したものの、一本松グリーンスポットという小公園に現在二代目の松が植えられている。なお近くを通る都営バス草41系統の停留所名として「一本松」の名が残っている。
古くは裸になって徒歩で渡っていたという記録から「渡裸(とら)川の渡し」と呼ばれるようになったと伝わる。後に「とら」という音から「とだ」となり「戸田の渡し」とも称された。現在の千住大橋のやや上流にあたり、奥州への古道が通っていた場所である。千住大橋架橋に伴い、江戸初期に廃されたという。
現在の千住汐入大橋付近にあった。明治23年(1890年)から昭和41年(1966年)まで汐入(現在の荒川区南千住八丁目)と千住曙町の鐘淵紡績会社を結び、女工たちの通勤用として運行されていた。紡績工場用とされる以前にも渡しはあったらしい。隅田川で最も最後まで運行されていた渡しである。
現在の水神大橋の100mほど下流にあった真崎稲荷と隅田川神社を結んでいた渡しで、名は隅田川神社が水神を祀っていることによるが、付近の俗称が「水神」でもあったことにもよる。歌川広重が錦絵「隅田川、水神の森、眞崎」に渡しを描いている。
「白鬚の渡し」とも称されるが、幾度も渡しの位置の変更があり名称も一定せず、それぞれ別の渡しとして存在していた可能性も高い。現在の白鬚橋付近にあり、記録に残る隅田川の渡しとしては最も古い。律令時代より制定があり、承和2年(835年)の太政官符に「武蔵、下総両国界住田河四艘。元二艘今加二艘右河等。崖岸廣遠。不得造橋。仍増件船(武蔵国と下総国の国境の住田河(隅田川)には現在4艘の渡し舟がある。岸は崖で広く、橋が造れないので2艘から増船した)」と書かれたものが残っており、この「住田渡し」とはこの渡しと想定されている。
奥州、総州への古道があり、伊勢物語で主人公が渡ったのもこの渡しとされている。また、源頼朝が挙兵してこの地に入る際に、歴史上隅田川に最初に架橋した「船橋」もこの場所とされ、「橋場」という名が残ったとも伝えられている。
橋場はその歴史的な土地柄から江戸時代から風流な場所とされ、大名や豪商の別荘が隅田川河岸に並んでいたという。そのため有名な料亭なども多く華族や文人などが出入りしていた。明治期に入ってからも屋敷が建ち並んでおり、とりわけ著名な三条実美の別荘である「對鴎荘」が橋場の渡しの西岸にあった。
歌川広重が錦絵「墨田河、橋場の渡、かわら竈」に描いた。白鬚橋の完成に伴い、大正期に廃止されたといわれる。
「寺島の渡し」とも称される。現在の桜橋の上流付近にあった渡し。橋場に対して、新しく作られたということで「今」戸と呼ばれたという。前述の橋場の渡しと名称や渡河位置の錯綜が多く見られることから、ほぼ同じ渡しの流れとも考えられる。
「竹家の渡し」、「向島の渡し」とも称された。待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも称される。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来するという。現在の言問橋のやや上流にあり、山谷堀から 向島三囲(みめぐり)神社(墨田区向島二丁目)を結んでいた。付近は桜の名所であり、花見の時期にはたいへん賑わったという。文政年間(1818年〜)頃には運行されており、昭和8年(1933年)の言問橋架橋前後に廃された。近くの台東区スポーツセンター広場に渡し跡の碑がある。
現在の東武鉄道隅田川橋梁の付近にあった渡し。渡しのあった花川戸河岸付近は「山の宿町」と呼ばれ、その町名をとって命名された。東岸の船着場が北十間川の枕橋のたもとにあったので「枕橋の渡し」とも称される。渡船創設年代は不明だが、江戸中期には運行されていたと考えられる。浅草寺への参拝客や、墨堤の花見客などで賑わった。隅田公園内に渡し跡の碑がある。
「駒形の渡し」とも称される。現在の吾妻橋と駒形橋のほぼ中間の場所にあった渡しで、江戸期に吾妻橋が架橋されたことによって利用者は減ったものの、明治9年(1876年)まで運行されていた記録が残っている。
舟上から富士山が良く見渡せたのでこの名がついたと言われている。江戸幕府の米蔵が付近にあったので「御蔵の渡し」とも称された。現在の蔵前橋の下流側にあたる場所にあった。関東大震災の発生前まで運行されていたが、震災発生により消滅。後に震災復興事業によって蔵前橋が架橋され、渡しが再開されることはなかった。
「千歳の渡し」とも称された。現在の両国橋のやや下流、首都高速道路両国ジャンクション付近にあった渡し。後述の安宅の渡しとかなり近いルートのため、同系統の渡しであるとも考えられる。
現在の新大橋そばにあった渡し。江戸初期には運行が開始されていたとされる。「安宅」とは近くの河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、付近が俗にそう呼ばれていたからである。
江戸期〜大正期の新大橋の旧橋は現在より150mほど下流に架橋されていたため、新大橋と安宅の渡しは平行して運行されていたが、明治45年(1912年)に現在の場所に鉄橋が完成したときに廃された。
現在の清洲橋の位置にあった渡し。現在日本橋中州町は内陸だが、渡しのあった当時は水路があり、まさに中洲で無人の荒地だった。明治6年、深川佐賀町に住む青木安兵衛が東京府知事の許可を得て始めたが、はじめ日本橋側の渡船場は箱崎、浜町付近で、中洲の開発が始まる明治40年ごろまで中州は通過地点でしかなかったと考えられる。清洲橋の架橋に伴い廃された。
「深川の渡し」とも称された。現在の隅田川大橋の下流側、江戸期の永代橋の架橋場所付近に、江戸寛文年間にあった渡し。元禄11年(1698年)の永代橋架橋に伴って廃された。
元来の隅田川の河口にあった渡し。霊巖島(現在の中央区新川、隅田川テラス)付近と、深川熊井(現在の江東区永代、永代公園)付近を結んでいた。
現在の佃大橋付近にあった渡し。はじめは佃島の漁民たちの私的な渡しであった。佃島は漁村のほか、藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかった。
現在の中央区月島と対岸の現在の聖路加ガーデン付近を結んでいた渡し。月島の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892年)に、鈴木由三郎という人物が私設の渡船を航行し始めた。その後、明治34年(1901年)、東京市が市営化を決め渡賃も無料にした。利用者は多く、明治44年(1911年)には徹夜渡船が運行されるまでであったという記録も残る。しかし、昭和15年(1940年)の勝鬨橋の完成とともに利用者が減少し、後に廃止された。中央区月島の「わたし児童遊園」内に案内板が残る。
現在の勝鬨橋のやや下流にあった。明治38年(1905年)、当時の京橋区役所が海幸橋と月島を結ぶ渡船を創設、無料の手漕ぎ渡船だった。まさに日露戦争の旅順陥落直後であり、この勝利を記念して海軍の発祥地でもある築地に「勝鬨の碑」を建設。さらに渡船も「勝鬨の渡し」と命名した。後に経営を東京市に移管。大正3年(1915年)には乗船客の増加に汽船に格上げされた。月島の工場群に通勤する労働者に多く利用されたが、昭和15年(1940年)勝鬨橋の架橋に伴い廃された。

 

[ 949] 必殺渡し人 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%85%E6%AE%BA%E6%B8%A1%E3%81%97%E4%BA%BA

舞台は、江戸のとある下町の長屋。その長屋に住む、鏡研ぎ職人の惣太(中村雅俊)は、ある日の夜、渡世人が、女性に襲い掛かる所を目撃する。しかし、女性は一瞬の早業で、渡世人を倒してしまう。
一夜明け、一人の若い女性が、長屋にある診療所を尋ね、堕胎手術を願い出る。この若い女性の名は、お沢(西崎みどり)。彼女は、さる大目付の屋敷に奉公する女中であったが、大目付の息子に襲われ、犯された挙句、お腹の中に、子供を宿してしまったのである。
あくまでも堕ろしたいと懇願するお沢の姿を見かねた、長屋の住人の一人の人足の大吉(渡辺篤史)は、独り身という事もあり、自らが面倒を見ると申し出る。息子の決意を聞いた大吉の母親も喜び、手放しでお沢を歓迎する。だが、息子の醜聞を恐れた大目付とその妻は、配下に手を回し、奉公先を無断で抜け出した罪でお沢を捕縛し、事を闇に葬らんと企てる。
暴行を受け、瀕死の重傷となったお沢。そして、その巻き添えの末に死亡した大吉の母親。お沢のお腹の子は流産し、大吉の母親は診療所で絶命した。重傷のお沢と、自分の母親が死んだ事に逆上した大吉は、怒りに燃え、二人の敵討ちを決意する。惣太は、逆上した大吉を帰らせ、ある女性に協力を要請する。この女性こそ、惣太が目撃した、渡世人を一撃で闇に葬り去った、凄腕の闇の渡し人・鳴滝忍(高峰三枝子)だった。
忍は蘭方の女医であり、普段は長屋の一角にある診療所を営んでいるが、裏の顔は右手の小指にはめた、鋭利な刃の付いた水晶の指輪で、悪人の首筋を瞬時に切り裂く技を使う事から、闇の世界では「鎌イタチの忍」と呼ばれる渡し人であった。また、惣太も、闇の世界では「鏡」と呼ばれる、凄腕の渡し人という裏の顔を持つが、愛する妻のお直(藤山直美)のため、足を洗っていたのだ。そんな忍と惣太の話のやりとりを陰から耳にし、仲間入りを志願する大吉。
結局忍は大吉の母親から、お沢の薬代にと預かっていた金を仕置料にして、大目付の屋敷を急襲。惣太・大吉・忍の三人は、大目付一派を仕置した。ここに新たなる「渡し人」チームが誕生した。
惣太、大吉、忍の三人が、今日も頼み銭を貰って、弱者の晴らせぬ恨みを晴らす「渡し人」として、悪人たちを三途の川に渡して行く。
「必殺シリーズ」第20作の本作は、第11作『新・必殺からくり人・東海道五十三次殺し旅』以降、各殺し屋チームが旅先で仕事を請け負う、いわゆる「旅物」が続いた「非主水シリーズ」において、久々の江戸が舞台となっている。
この時期の「主水シリーズ」=「必殺仕事人シリーズ」において、次第に多人数化の一途を辿るのとは違い、本作では久々の少人数制を導入。後期「必殺シリーズ」では、日常生活感のある設定作りを目指した、稀有な作品となっている。
本作のキャスティングは、まずシリーズ初出演として、主役の惣太役に、かつての学園青春ドラマからデビューし、一躍スターの仲間入りを果たしながらも、次第に演技派として成長を遂げていた中村雅俊を起用。必殺と同じ松竹製作の時代劇映画「次郎長青春篇・つっぱり清水港」に続いて二本目の時代劇出演となった。一般的に見れば、殺し屋役として、中村は似合わないといった感を第一印象として抱きがちであるが、「必殺シリーズ」のメインコンセプトである「一見すると殺し屋(役)は似合わない、ホームドラマに出演する俳優を起用」する考えに則れば、本作の中村の起用は正解であり、お茶の間に好印象を持って迎える事の出来る中村を主役にする事で、悪印象を作品に与えないのである。
次に第6作『必殺仕置屋稼業』・第7作『必殺仕業人』に、主水グループの密偵役・捨三として連続出演し、『仕業人』以来、7年振りのシリーズ復帰を果たした渡辺篤史が、本作では密偵から殺し屋へ堂々の昇格。寡黙で、一本気な性格の大吉役を好演した。
そして、第2話で大吉の妻となるお沢には、第16作『必殺仕舞人』でシリーズ初登場し、以来本作で3作連続出演を果たした(以降、第22作『必殺仕切人』〜第24作『必殺橋掛人』まで続く)西崎みどりが演じた。お沢は第1話の時点で、暴行から来るショックで自らの記憶を失っていたが、ある事件をきっかけに、記憶を取り戻す。しかし、同時に、夫である大吉と、忍、惣太たちの殺しの現場を目撃する(第3話)。それでも自らを愛する大吉を信じ、渡し人の仲間に加入する事になる。
他にも、惣太の愛する浪速(大坂 - 現在の大阪)出身の妻・お直に、故・藤山寛美の娘、藤山直美。特撮ヒーロードラマ『仮面ライダースーパー1』で、主役を演じていた高杉俊价。第5作『必殺必中仕事屋稼業』で、オカマの目明し・源五郎役を好演、『仕事屋』以来、8年振りのレギュラー出演を果たした大塚吾郎。そして、渡し人の元締・鳴滝忍役には、歴代シリーズで、女元締を演じた草笛光子、山田五十鈴、京マチ子に続く、4人目の登場となる高峰三枝子を起用。
作品内容としては、この時期のシリーズに漏れず、情を重んずるストーリーが展開し、惣太・お直夫婦と大吉・お沢夫婦という二組の夫婦愛が中心となっている。歴代の各作品に良く見られる「金銭目当て」による悪人は極めて少なく、皆、楽しむために悪事を行う事と、「手篭め」「夫婦交換(スワッピング)」「SM趣味」といった、色事に纏わる事件が各話を彩り、性描写も手伝い、印象深い悪事が行われる事が、特徴的である。
この様に、本作は、歴代シリーズに無い特殊な作品世界と相成って、同時に、初期〜中期シリーズのティストがうまく加味され、後期「必殺シリーズ」=「非主水シリーズ」の中でも、その堅実な作りが好評を得た作品といえる。
なお、番組タイトルの「渡し人」は、当時、細川たかしの歌唱で大ヒットした「矢切の渡し」から付けられた。
また、本作の音楽は平尾昌晃の名義になっているが、平尾が新たに作曲したのは主題歌のみ。劇中曲は旧作からの流用が中心で、新曲は中村啓二郎が手掛けている(クレジット無し)。
シリーズ第10作『新・必殺仕置人』の念仏の鉄(山崎努)以来のレントゲン映像を使用。本作にて久々の復活を果たした。また、第5話以降は、レントゲン映像に、新たに悪人の「痛い痛い痛い!」の声が追加された。場合によっては「痛て痛て痛て!」の場合もある。
鳴滝忍(カマイタチの忍)…右小指にはめている、鋭利な刃の付いた水晶の指輪で、悪人の首筋(頚動脈)を瞬時に斬り裂く。
これは当時、国鉄(現・JRグループ)のテレビCM「フルムーン」(熟年夫婦対象の旅行割引キャンペーンの事)で、高峰本人が、上原謙と共演した事を狙った演出である。
第13話-最終回のみ、真の標的を誘い出すため、通常とは違い、左小指に指輪を付け替えて、悪人の首筋を斬り裂いている。
二人がかりで渡します - 新潟テレビ21での必殺シリーズの最初の放送(新潟総合テレビからのネット移行)。

 

戻る

マイワンのサイトです。

マイワンのサイトです。