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証明とは?/ マイワン

[ 386] 悪魔の証明 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E

事実の有無に争いがある場合、多くの場合、「積極的事実」(ある事実が存在すること)を主張する者に証明をさせるべきであり、「消極的事実」(ある事実が存在しないこと)を主張する者に証明をさせるのは妥当でない場合が多いということを比喩的に表現した言葉
この表現は、ラテン語の probatio diabolica に由来しており、古くは中世ヨーロッパにおいて、土地の所有権の帰属を証明する際に、当該所有権の由来を遡って逐一立証することは不可能であることを指して用いられた。日本の民法学においても物権法の分野ではそのような意味で現在でも使われている。しかし、それが転用され、民事訴訟法学者の兼子一らによって、上記のような消極的事実の証明の困難性を指して比喩的に用いられる例として使われるに至り、現在ではより広く、証明が極めて困難であること又は不可能であることの比喩として用いられている。
事実の有無の証明が問題になる場合、ある事実がある(積極的事実)と主張する側が当該事実の存在を証明する必要があり、相手方側がないこと(消極的事実)を証明する必要はないとするのが、多くの場面で妥当すると理解されている。
なぜなら、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すればすむが、「ないことの証明」は、厳密には全称命題の証明であり、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならないためである。すなわち、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、一般に困難である場合が多い(検証と反証の非対称性)。この「ないことの証明」(消極的事実の証明)について、その立証の困難さから「悪魔の証明」という表現が比喩的に用いられている。
これを「ないこと」として否定する場合は第二次世界大戦に参加した人間全てを調べなければいけない。しかしそのような調査は実行不可能である。一方、一人でも鎖鎌を使った人間がいることを証拠により裏付けられれば、「あること」の証明は可能である。
もっとも、事実が積極的事実か消極的事実かは、議論において考慮すべき要素の一つに過ぎず、何らかの理由によりがそれを容易に証明できる場合には、当該当事者に「ある事実がないこと」を証明させるのが妥当な場合もある。
なお、民事訴訟においては、ローゼンベルクの証明責任論以来、権利関係の変動の原因たる事実を主張する方にその証明責任を負わせるべきとの考え方が支配的であり、刑事訴訟においても、証拠収集能力の偏在とか、訴訟追行が拙かったことにより有罪になることの問題などが考慮されて挙証責任の問題が考えられているのであり、積極的事実か消極的事実かによって証明責任・挙証責任の分配を考える手法は採られていない。
悪魔の証明という言葉は、消極的事実の証明の困難性にもかかわらず、積極的事実を主張する者に対する批判として用いられている。
しかし、このような理由付けは、「月の裏側には、ウサギが存在する。」という積極的事実を前提としなければ成り立たない。なぜなら、「月の裏側には、ウサギはいない。」という証拠がないことによって、「月の裏側には、ウサギが存在する。」ことが証明されたことにはならないからである。もし、このような論法により、あるものの存在が認められるとすると、ほぼどんなものでも存在すると言えてしまう。
ただし、この例題においては、仮に「月の裏側には、ウサギが存在する。」ことが先に根拠を以て主張されているのであれば、「月の裏側には、ウサギはいない。」ことの立証は、厳密には消極的事実の証明ではなく、積極的事実の立証に対する反論(否認)となる。反論者はウサギが存在することに関して当初提示された根拠を検証し、根拠を以て反論すれば良く、「ないことの根拠」を提出する範囲が限定される。 根拠を以て「ウサギが存在する」ことを主張し、根拠のある反論を求めることは議論において正当な方法であって、このような場合を指して「悪魔の証明」とするのは誤用である。
同様に、他の消極的事実の証明以外の場面でも、特に刑事事件における推定無罪の場でも「悪魔の証明」という表現が用いられているようになっている。
このような場合、Aの無罪を主張するのであれば「自分が痴漢行為をしていないこと」を証明し、かつ「無罪の証拠を“100%”揃える」必要があるため、その立証の困難性を指して「悪魔の証明」という表現が用いられている場合がある。
しかし、この場合のAの証明は、消極的事実の証明責任を課されているわけではない(そもそも、刑事事件の立証責任はすべて検察官にある)。
先に検察官により提出された被害者の証言などの証拠に対し、検察官が犯罪事実が立証されたと主張しているのに対して、その積極的事実に対する反証(否認)を求められているのである。
したがって、この場面も、厳密には本来の「悪魔の証明」が用いられる場面とは異なっているが、類似した場面での用法は広く見られる。
この語はもともと、中世ヨーロッパの法学者が、「古代ローマ法において所有権の帰属を証明することが極めて困難であった」という学説を主張するにあたり、比喩として用いたものである。
所有権の帰属を証明するためには、原始取得の場合を除き、前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明を要するとされている。ところが、前の所有者にそもそも所有権が帰属していたことについて争われた場合は、その者がさらに前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明が必要になる。さらにその前の所有権が争われた場合はその前の…と、無限後退に陥ってしまう。このようなことから所有権の証明は極めて困難であったと説明するのである。
ただし、現在では権利外観理論や権利公示制度の発達により、ローマ法における悪魔の証明という事態は起きなくなっている。ただし、権利の存在を推定する規定がある場合、理屈の上では、権利の不存在を否定するためには、あらゆる原因による権利の発生原因たる事実が不存在であること、発生した権利が消滅した場合であっても、その後さらにあらゆる原因による権利の発生原因事実が発生していないことを証明しなければならないことになる。そのようなこともあり、権利の不存在の証明について悪魔の証明という語が日本の法学界で使われることがある。

 

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